最後の晩餐は大福餅と煎茶が良い

27歳になったら死のうと思って生きている

悼みの日

しにて〜と言った翌日

祖父が亡くなりました。

 

ここ数年で認知症となり、介護生活を送り

この数ヶ月で肺炎になり、自力で食事ができなくなり

もう長くない、と言われて1ヶ月ほど経ち

おじいちゃん、辛いだろうに頑張ってるんだな

と思っていたところ。

朝LINEを見たら母から逝去の知らせ。

 

正直言うと、もう長くないと聞いてから

頭の中だけ徐々におじいちゃんを死なせていました。

きたる死の知らせに備えて、その時たくさんの思いに

ぐちゃぐちゃと頭をかき回されないように

おじいちゃんとの思い出を少しずつ振り返りながら

あぁ、でも死んでしまうんだなと悲しむ儀式を

この1ヶ月ほど地道に続けていました。

その甲斐があってか、LINEを見たとき

そこまで大きな動揺に襲われることもなく、取り乱すこともなく

今日の勤務はどうしようか、ということをぼーっと考えました。

 

結局在宅勤務で仕事はしたんですが。

悲しいとか寂しい気持ちはそこまで押し寄せなかった、

心が空になったような、無に近い状態。

逝った時どんな様子だったのだろうとか想像して

いつも泊まりに行った時にガーガーいびきをかいてたときのような

大口をあけて、そのまま息を引き取ったんだろうか

静かに眠るように逝ったのだろうか

色々考えましたがきっと、誰にも聞くことはないと思います。

 

だけど少し、手の空いた時におじいちゃんとのことを思い返すと

なんだかんだ、乾いた瞳に涙が浮かぶ。

悲しいし寂しい。

もしもタイムマシンに乗れたなら、私は小学生のころの

祖父母宅に家族で泊まりがけで行った時に戻りたいと思っていました。

おじいちゃんは認知症でボケていなくて、バイクで

スイミングスクールに毎日通っていて

まだ当時生きていた愛猫を可愛がっていて

夜親戚一同でお酒を飲むと酔っ払って軍歌を歌い出す。

おじいちゃんは第二次世界大戦の生き残りで、

あと少しで特攻というところで終戦したのです。

右翼ぽいところもあったけど、誇り高くてかっこいいと思っていた。

 

おじいちゃんが話してくれた近所の底無し沼の話

おじいちゃんが自力で作った庭のテラス

おじいちゃんが育てたかはわからないけど庭の藤棚で

毎年美しく咲いていた藤の花

認知症が進んでからは、会いに行くたびに美人さんだねぇと言って

私の名前をかろうじて忘れていたりして

 

小さい頃はおじいちゃんとなんの話すればいいかわからなくて

いつも話す時ドキドキしていた、

おじいちゃんの手は大きくてゴツゴツしていて

歳の割にはガタイもしっかりしていて若い頃はかっこよかった

笑い声がとにかく大きくて、笑った顔にほっとしていた

 

もう、もう会えないんだなぁ。

 

本日、おわり。